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奄美の陶芸家

Vol.4 池 淳一 

スペインで修行を積んだ野茶坊焼窯元・池波陶柳さんこと池淳一さんのユニークなプライベートに迫ります。

池先生と三角浜での会話 インタビューから抜粋

※ このインタビューは2017年冬〜2020年秋までの記録です。 池淳一さんは2020年12月にご逝去されました。故人の冥福を祈り、生前のインタビューを紹介します。

三角浜にて池先生 奄美大島の市街地に近い三角浜にて

どちらで生まれ育ちましたか。

生まれた場所は終戦直後の防空壕よ。奄美大島南部の港町古仁屋の防空壕で生まれた。戦後すぐだった。戦争終わったらすぐだったんで病院も何もなくてね。おふくろが自分でへその緒切って、すごかったみたいよ。あの時代の人はみんな強かったみたい。ばぁちゃんが産婆さんを呼びに行ってる間に生まれ、僕を抱いて失神してたらしい。

もちろん食べるものもない。食事なんて贅沢な話で芋があれば喜んで食べる。僕が先に死ぬか、おふくろが先に死ぬか、賭けをしていたみたいよ。(笑)

防空壕 奄美大島で現在も残る防空壕 瀬戸内町須手

奄美がアメリカだった時代はどのように過ごしていましたか。

人の家のばんしろう盗んだり、みかんを盗んだり・・・(笑)そんなもんよ。 食料がないから食べ物があったらどこにでも行ったね。みんな命がけだった。

ウニとかエビ捕りもよくしたよ。エビを捕ってきたら親が喜んでね。お金にもなったし、米軍のおっちゃんなんかに持って行くと喜んでチョコレートと替えてくれたから。

信託統治、奄美がまだ日本に復帰していない時は古仁屋で暮らしてたね。 昭和28年、小学二年生の時まで古仁屋で暮らしていた。

移動できるようになってから名瀬に移った。それまでは勝手に移動できなかったからね。

国連の信託統治におかれた奄美大島は、アメリカ統治時代が約8年余り続き、1953年(昭和28年)に日本に復帰した。命をかけて生きるために必死だった時代背景が伺えました。古仁屋は奄美大島南部、名瀬は奄美大島中心部。

ピカソに憧れ、スペインでの暮らしも経験されたとか。

スペインのバルセロナで7年ほど暮らしていた。

ピカソに憧れてたから本当は焼き物じゃなくて絵描きになりたくてね。
大学に行く時に「美大に行きたい」と言ったら美大に行くなら金は出さんと親父に大反対された。絵描きでは飯は食えんと言われてね。

どんな大学でもいいからということで入った学部は獣医を目指すところ。 入学して三年目に大学紛争、学生運動が激しくて大学は封鎖された。

休学中にシベリア鉄道に乗り、レニングラード(現ロシア・サンクトペテルブルク)まで行った。1ドル360円の時に本来は500ドルまでしか持てなかった時代だけど、横須賀の米軍基地で闇ドルを100万分買った。約3000ドルで、日本円にしたら30万ちょっとにしかならない。3000ドルなんてすぐに無くなったね。

「今、ベルギーに来てる」と親に電話したら、「あっそうか、暗くならないうちに帰れよ」と言われた。どっかの喫茶店と間違ったんじゃない?全然信用されてないわけ。

「今フランスに着いた」って言ったら、「おまえ本気か?」って。 「日本への電話が80ドルかかるのに、冗談で電話できる金額ではない」と怒ったね。もう、せっかくここまできたんだから、なにがなんでもピレネー山脈を越えて帰ろうと思った。

フランスに着くまではみんな背が高くてね。特にスウェーデンとか。 子供用のトイレを使わなくてはいけなくて、恥ずかしかったね・・・

山を越えたら、自分と背丈が変わらない人達がウェルカムな感じで、誰でもおいでみたいな感じだった。

ピカソの写真パブロ・ピカソ Pablo Picasso (1962年)出典:Artpedia アートペディア/現代美術の百科事典

そのままスペインに移住したのでしょうか。

いや、日本に帰って来た。帰国したら卒業証書が届いてて水産学部卒業になっていたのは驚いた。お袋にも「おまえずっと嘘ついてたね」と言われたけど、もう卒業できれば何でもいいということになってね。獣医を目指し入学し、卒業は水産学部でした。

「よし、これで行けるな」と、卒業後に家を出た。

どうしてもスペインに行きたかった。前にピカソが出た学校を確認してきてたから同じ学校に行けばピカソになれるかなと思って、親父に黙って飛び出して行ったね。

スペインの写真スペイン・バルセロナのランブラス通り 出典:Expedia.co.jp

バルセロナの中心地にあるマッサーナ美術学校に何が何でも入学したいと思って、言葉も分からないけど、唯一外国人が受けられる試験があったので受けた。

机に画用紙と鉛筆が置いてあり、ストップウォッチがあって試験官がストップウォッチの15分のところを指差し、顔を描けとジェスチャーで教えてくれて描いた。

結果はA,B,Cとランクがあって

A, 授業料免除、生活も学校が面倒見る、入ってちょうだい。

B, 授業料免除、来たければおいで。

C, 全額自己負担

僕はBで、生活費は自分で稼がなくてはいけないわけで、学校の仲間とランブラス通りで似顔絵を描いて売っていたね。お客さんが付かない日にはお客さんが付いた仲間に食わしてもらう。それが、一ヶ月も二ヶ月もその男にばかり食わしてもらうと、だんだん引け目を感じるのよね。で、負い目なく飯食おうと思って、日本から持って来た墨を、わざとみんなの前で擦って墨で似顔絵を描くようになったら、なんだなんだと観光客が寄ってくるのね。今度は僕のところばかりお客さんが来だして、一人勝ちしたみたいになって、本当は恥ずかしかったけど、生活かかっているから人前でも平気で。あれから恥っちいうことを知らんくなったのかも。

ひよこの鑑別の仕事もした。いいお金になって小さなマンションを買って生活してたね。僕がスペインを出る前に海外旅行が自由化されて、日本からバルセロナ大学に2人きたけど、飯が食えんって、うおさおしてたから「僕のところ来れば」と飯食わしたのが間違いでね・・・大変だった。

ひよこの鑑別の仕事はグループで国境まで走ることもあり、車の距離と稼いだ金額をまとめる。 1週間したら、また違うところへと行く。ポルトガルの国境だったり独身は遠くに行かされるし、かなり大変だったね。

海外旅行の自由化は1964年昭和39年。留学と移住の目的を持った人だけがパスポートを作ることができた。観光目的では海外に行くことができない時代。

ゲルニカ『ゲルニカGuernica』ピカソの代表作(1937年)出典:Artpedia アートペディア/現代美術の百科事典

スペインの内戦中にピカソが描いた「ゲルニカ」は土地の名前だけど都市無差別爆撃を受けた場所で、ピカソは政府に対して革命運動の戦士だったのよね。同じように小説家のヘミングウェイも仲間だったみたい。たまたま行ったキューバのレストランではヘミングウェイの席があって、毎日同じ席でロブスターを食べていたみたい。僕も改めて入り浸りになったけどヘミングウェイの席には座らせてくれないのよね。今でも彼がそこに居るからと。

他にも画家であるサルバドール・ダリと、その妻であるガラ・エリュアールとも偶然会ったことがあるというエピソードを聞いて驚きました!

バルセロナに7年間住んでいて奄美に戻ろうと思ったきっかけは。

スペインでクーデターが起こりそうだったから。 フランコ体制から王政に変わる時に暴動が起きそうな感じで、地下鉄の入り口あたりに機関銃持って立つやつが出てきたから怖くなってね。で、まあ危ないから少し離れた外から眺めてようとなり、フランスのペルピニャンというところからバルセロナを眺めてたら、なかなか終わりそうになかったんで、じゃ一回日本に帰ろうかと帰ってきた。おやじは喜ぶし、お袋も喜ぶし・・・

フランコ1970年代のフランシスコ・フランコ バルセロナにて。

長男だからとか?

いや、災難(笑)生まれてからずっと災難。 日本に帰るつもりはなくて出て行ったからね、帰るのが敗北宣言したような・・・

帰りたくなかった。帰りたくなかったけど、まあ、生活できんとしょうがないんで。

島に戻ってきてから本格的に陶芸を仕事として始めたのでしょうか。

スペインでやってたからね、これしか生活の手段知らんし、一時は生活の為の仕事を探したりしたけど、でもやっぱりこれしかないなと思って。

島で陶芸を始めた時に後ろの山に林道を作る計画があって、山の尾根を通って各集落に降りる計画だったのよね。その仕事と同時に良い土を見つけたら持ち帰った。あと妊婦さんを運ぶ仕事もした。土方の作業代と運賃、そのトラックで妊婦さんを運ぶのも別で貰い、そして帰りに粘土を運ぶ。渡りに船みたいな感じでいい思いしたけど、だから今はどこにどんな土があるかだいたい分かる。島の土はほとんど焼いたつもりでいるけど。

池先生の写真作品作りに没頭する池先生

奄美大島の土は何種類ありますか。

何種類もない。焼き上がったらほとんど全部いっしょ。 川を掘ると出てくる細かい粘土があって、戦後はその土で瓦を焼いてたみたい。 笠利ではチョコみちゃというけどね。昔、瓦を焼いてたところをあまくま(あちこち)訪ねて行くと焼ける土があったよね。ただね、この土はいいだろうと持って帰るけど、その土を持って帰ってきてこの窯で1180度で焼くと、だいたい倒れるのよね、1250度まで最低もってもらわないと上薬が溶けないし、本体は倒れて上薬が溶けないとなると話にならんでね、温度を上げる為にはどうしても島の土に白土をと、信楽から磁器の土を分けてもらって島の土が7割、信楽の土を3割混ぜて使ってる。

今、焼き物を始めた人はいっぱいいるけど、おそらく自分で粘土を作ってしてる人はあまりいないんじゃないかな。都会とかでは絵付けの職人、轆轤職人、窯焼き、といって分業になってるから、むしろ一人でやるというのは、あんまりないみたい。

池先生の写真野茶坊焼工房・美人集会所

どうしても生き残りをかけてやらないといけないわけで、色々見て回る時に赤い焼き物が少ないと思い、じゃやろうと。赤い色を出す為にずいぶん時間かかったけどね。

「赤い色は珍しいですね。どうやって赤い色を出すのですか?」と取材がある時によく聞かれる。「出すためには基本があって、まずは家計簿を赤くせんといかん」と返す。

「家計簿が真っ赤になった時にね、少しづつ赤い色が出てくるかもよ」と話すと、もうこれ以上質問してもしょうがないかなと思うみたい。(笑)

ギャラリー野茶坊焼のギャラリー

赤色はスペインの闘牛でインスピレーションを得たんだとか。

初めてスペインで闘牛を見た時にね、牛の背中に剣を刺す時に血がドバッと出るのを望遠鏡で見てたのよ、むるショックでね。どうしても赤をやりたいと思った。黒と赤をしたくてね。

子ども達も見たいって言うから連れて行ったけど、同じことを三回繰り返してショーが終わるところを一回目で帰ろうと言ってきた。その時たまたま風下に居て血の匂いがしてきてね。娘が帰ろうというから、いやこれは他では見れないし、おそらく無くなるはずだから必ず最後まで見てから帰れと言ったら泣きながら見てたけどね・・・

本当は見せたらよくなかったかもしれないけど、今はもうスペインでも闘牛は無くなってきたよね。残酷だからやっちゃいかんと。観光客にずいぶんなじられたみたい、動物愛護団体からもバッシングを受けたしね。

赤い陶器野茶坊焼きの特徴的な赤い焼き物

『野茶坊焼』の由来と始めて何年目になるか教えて下さい。

今年で43年目かな。(2020年) 島の伝説上の男で「やちゃ坊」っているのよね、やちゃ坊に憧れてたからね。まっそういう言い方はあれだけど別に何坊でも良かったのよ。どうせ普通じゃないはみ出し者みたいにしてやってきてるから、やちゃ坊でいいかなと大して深く考えなかったけど。

新聞社などに「やちゃ坊ってどんな人だったのかい?」と聞きに行くと、「家に帰って鏡見たらやちゃ坊はいる」との返事で、まあそう思えばいいんじゃないと言うから。まぁ、そう思おうかなと。あの時はヒゲがだいぶ伸びていた。生え放題にしてたから、少しは身なりを考えなさいと言われたりね。

工房の写真工房に向かう途中にも作品が並ぶ

そんな「やちゃ坊」が木造舟で島を一周したとお聞きしました。

野茶坊集団っちいうのがあってね・・・
こんなことやりたい!と新聞に載せると、わぁーと集まってくるのよね。 手漕ぎの木造舟で島を一周したい!と声に出すと集まる仲間がいる。

今みたいにネットなんてない時代だから新聞や陶芸教室に通う生徒だったり口コミで広がった。1回目は日本一の野焼きと言ってずいぶん大騒ぎしたね。

その野茶坊集団の仲間と木造舟で奄美一周した時は野焼きの二年後。

アイノコ唄う舟大工として有名だった坪山豊さんが造った木造舟アイノコ

市役所の木造舟でも借りて島を一周したいと、仲間でもあり船大工で唄者でもある坪山豊さんに話したら、「バカ、あれは舟漕ぎ用で湾内で動く舟。外洋に出るには一回り大きくしないと出れない」と言われたね。「縦も長く幅もある舟を自分が造る」と言ってくれて「じゃお願いします」と。それで作り始めてから「すみません実は一銭も金持ってません」と言った。そしたら「あきれた!金持たんでお願いしにきた君も図々しいけど、まぁ自分もこれが最後の舟だと思うから」と造り続けてくれたのよね。

手漕ぎの舟は普通だと舵取りいれて7人乗り。あれは8、9人まで大丈夫な舟だったみたいよ。

三角浜にて木造舟で島を一周した時のスタート地点 (奄美市名瀬三角浜)

埋め立てになった角のコンクリートの部分に砂が溜まりだし、池先生がアダンを3本ほど植えたという。多くの砂が溜まるようになり、今では名瀬市街地から一番近い砂浜となった。その三角浜には60種類もの海浜植物があるという。

アダンの植物を描いていた田中一村さんは「アダンは浜を作る」とも言っていたそうです

田中一村さんが生前の頃、会いに行った池先生は一村さんの絵を見て衝撃を受けたそうです。

三角浜にてアダンを植えた三角浜。今では60種類ほどの海浜植物が確認されている。(奄美市名瀬)

田中一村・アダン田中一村「アダンの木」昭和40年代の作品 出典:田中一村の世界から/NHK出版

何日かけて舟を漕いだのでしょうか。

手漕ぎ舟は名瀬の三角浜から大和村周りで一週間かけて一周した。 舟を漕いでる間に何かあったらいかんちゅうことで、陸と海から伴走。あの時は世界一周から帰って来たヨットマンがいてね、ヨットでずっと伴走してくれた。

着いた先で必ず一泊しないといけなくて、そのころ6市町村だったのもあって各市町村で一泊した。各市町村の青年団が協力してくれたからね。みんな手弁当で炊き出しも彼らがしてくれて嬉しかったなぁ。たまたまが、たまたまと、いつも人が集まってくれるのよね。ありがたい話でね。 名瀬から車で行った青年団も彼らと合流してそこでノミニケーションが始まるのよね。

コミニケーションよ、遊びだから。

あとNHKがドキュメンタリーとして撮影し、記録として残す予定が何か大きな事件があった時だと思うけど、途中で記者が呼び戻されたりもしたね。

板付け舟に乗る野茶坊集団漕ぎ出した野茶坊集団

それから5年後、一時はおさまっていた虫がうずきだしたみたいで、何かやろやろう!なんか考えれと仲間がいうもんだから「舟漕ぎで島一周したんだから竹馬で島一周しようや」となって、竹馬で島を一周したよ。夏休みを利用して竹馬の駅伝。スタートは名瀬から、舟漕ぎと同じように各市町村を回った。

なぜ竹馬で?

歩くのはみんなやってるし、どうせなら竹馬のほうが面白そうだし、浅はかな話で一歩がかなり大きいから速くなるかな、、、なんて。かえって遅くなったりしてね(笑)

ほとんどアスファルトの上で問題なかったけど、宇検の屋鈍から瀬戸内の西古見まではきつかったね。ちょうど台風明けで道は狭いし、ヤギは飛び出してくるし、風は強いし。

竹馬は前屈みに乗る形なんだけど、急に岩影に入り風がピタッと止まると倒れそうになる。なによりヤギが飛び出してくるのが一番怖かった。

竹馬の時も舟漕ぎの時みたいに、みんな手弁当でね。いい思いをしました。 証拠を残すために各小学校の校長先生に頼んでコメントをお願いした。それが今は僕の財産。

竹馬人生を楽しんでいる最高の笑顔!

日本に戻って来てからもよく海外に行かれるんですか。

ちょこちょこね、英語がダメだからラテンの国ばかり。 キューバは帰国してからもう一度行ったね。 今まで行ったのがメキシコ、グァテマラ、コスタリカ、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ベネズエラ、キューバ、ニューヨークは展示会の為だけど、英語が全然意味が分からんでね。ちょこちょこ海外に出るけど、長くても半年ぐらい滞在して、長く住んだのはバルセロナだけ。

海外から日本を見たり、奄美を見たとき色々と感じるものはありましたか。

それはある。いっぱいある!やっぱり奄美の海が一番いいなと思う。カリブ海やエーゲ海もきれいな海を宣伝してるけど撮り方よね。

汚れた所は汚れてるし、島の方がまだいい。

画面には写らない部分が本当だよ。なんて話したりする。都合の悪いところは映さないからね。

ある時、母校である大島高校で話す機会があって、進路が決まっている三年生だったんだけど「必ずできる目標定めよう」って話しをして何がいいか話しているうちに「浪人という目標を立ててごらん」って話しだしたら、進路指導の先生に袖を引っ張られたこともあったね。何でも話していいって言ったのにね。

目標を浪人に定めたら、確実に達成出来る。浪人したら予備校ではなく、とんでもない貧困の国に往復の運賃だけもって彼らと同じような生活したり「とにかく日本を出てみろ」と話した。

どう感じたか分からないけど、その後に学生から電話があったのは嬉しかったね。「おじちゃんのところに話し聞きにきてもいい?」って。

それから学生の子たちが遊びに来るようになった。

入口野茶坊焼の入口

お弟子さんはいますか。

いないね。島には江戸時代にも戦後にも何件か焼き物屋があったみたい。ところが十年続かなかったとの話。僕は四十年続いたからもういいかなと。二代目は育たないと言われたから無理にでも育てようと思ったけど、もうちょっと見込み無さそうだから、もう尻尾を巻いて墓に入ろうかなと。

ここまでは2017年までのインタビュー 2020年のインタビューに続きます。

諦めていた頃に本気で焼き物をしたい若者に出会ったようですね。

そうね。「毎日1分でも土に触ることが大切だから、毎日来れるか?」と聞いたら、サラは「毎日来る」って言うからOKした。たまたまスペイン語を話せることもあったしね。

サラと先生池先生とサラ。本気で焼き物をしたいと弟子入りをしたサラさんはマイアミ生まれ。 仕事関係で奄美に来て、池先生と出会ったそうです。 キューバ人のご両親に育てられスペイン語も話すサラさん。 池先生との会話はスペイン語。

ある日、サラが来れない日があって「毎日来れんのだったら来んでいい」と言ったら泣き出したこともあってね・・・辛かったかも。自転車で来るんだけど、台風の時も自転車で毎日通ってきて。

夜遅くなったときは帰り道が心配で後ろから車で追いかけて無事を確認したりね。

本人は気づいてないと思うけど、心配だったから。

サラと先生厳しいながらも優しさがあって、サラさんは真剣ながらも楽しそうに修行していました。 今はサラさんと一緒に古い窯をアレンジして茶道の茶碗を作る専用窯も作っています。 ますます活き活きとして楽しそうな池先生でした。

ところで、池先生は毎日泳いでいると聞きました。

義理堅く毎日までじゃないけど、暇があるときは泳ぐね。

泳ぐことは昔から好きだったのですか?

あの〜、現役の・・・ まぁ・・・自慢話になるからあんまり言いたくないけど。 県体の現役選手なんですよ。40年続けている。

「自慢じゃないけど」ってあれは自慢ということよね(笑)

スペインから帰って来てからずっと毎年泳いで、40年にもなるってことで県が表彰してくれるということだったけど、記録も何も作ってなくて、ただ40年泳いでいると言うだけでね、みっともないから嫌っち言ってね。

40年ってすごいですね!

すごいらしいね。国体に出てる人も40年は続いてなく、今の会長もずっと国体には出てるけど、県体とかち合ったりするから会長は自分だって40年できなかったのに、せっかくだから貰いに来いと言われた。でも、ちょっと恥ずかしくて・・・

泳ぐことは自然なことですか。

日課になってるからね。暇があったら自動的に足が・・・(笑)。

毎日暇があったらというか、なくてもつくるけど。

中学生の時に水泳部ができてプールがなくて海で泳いでたね。 唯一、島では大島高校にプールがあって、そこに泳ぎにいったりしてた。 それは親父達が作ったプールだった。僕が使い、後に娘も使ったりね。

水泳一家という感じですね。

そうね、まっ一応。でもカミさんは全然泳げないの。

泳がすのは得意よ。

僕はずっとカミさんの手のひらで泳いでいるから(笑)

うん、あの〜 すごいコーチだよ。

日課である水泳が池先生の健康の秘訣であり、奥様の手のひらも心地よく自由に泳げる場所なんだろうなと思いました。私は奥様に弟子入りしたい!

工房飲み池先生が好きだったノミニケーション。サラさんは2020年の秋頃に、修行を終えてマイアミに帰りました。

仕事を終えた池先生とサラ。楽しい時間をありがとうございました!

池先生を偲んでインタビュー記事を掲載いたしました。

改めてご冥福をお祈り申し上げます。

このインタビューは2017年冬〜2020年秋までの記録です。